「幼稚園にいっている4歳9ヵ月の男の子で、今さかんに絵を書いたり、数字をおぼえようとしています。「お母さん、これ見て」と書いたものを見せるのですが、そんなとき、けなしたりしては子どもらしい空想や意欲を吹き消してしまうとよく教えられますので「上手ね」とおだててきたのです。ところが、最近自分にすっかり自信をもってしまって、私が教えようとすると、「これでいいんだ。もうお母さんに見せない」などと妙に意固地になってしまいました。これからどのように指導したらいいものでしょうか。」
子どもの絵を軽率にほめるのは考えものです
子どもの指導のむずかしさは、どのようにほめたらよいか、どのように注意したらよいかにかかっています。
まず、ほめることについて考えてみましょう。子どもの書いた字や描いた絵が、お母さんにとって本当に感動的なものであれば、そうしたお母さんの気持がそのまま子どもの心に伝わっていきます。それをほめる―という言葉で表現してよいかどうか。なぜならば、ほめるときには、じょうずだから―という価値観を伴っているからです。子ども自身はあまりじょうずに描けなかったと思っているときに、お母さんにほめられたりしますと、そのときのお母さんの言葉に抵抗感をもつことさえあります。
さらに、お母さんがほめるときには、子どもをおだてて、もっとじょうずになってほしいという気持が含まれています。つまり、お母さんが「じょうずね」とほめた言葉の裏に、「他の子どもに負けないで」とか「もっとがんばってやって」というお母さんの気持が含まれていますと、子どもはそれに敏感に反応しますから、だんだんにお母さんに見せなくなってしまいます。とにかく、おだてることがよくないことは大人の社会についても言えることですね。
一方、お母さんからはほめられたけれども、幼稚園の先生や友だちとの関係の中で、子どもはいろいろな気持を味わうことになります。例えば、先生が隣の子の絵を見て「わあ、すごーい」などとほめ、そのあとあなたのお子さんの前を何もいわずに通り過ぎてしまったというようなことがあれば、お子さんはどんな気持になるでしょうか。お母さんはおだててくれても、先生は認めてくれない―という劣等感をもつでしょう。こうした点に細かい配慮をしている園では、軽率に子どもの絵などをほめないようにしているのです。
さて、絵や字をお母さんに見せようとしない原因のもう1つの面を探ってみましょう。それは、友だちからけなされる経験をもったのではないかということです。子どもたちは遠慮なく「変なの」とか「おかしい絵」などと勝手なことを言います。気軽にそうした言葉を交わしてきた子どもは、友だちにけなされても、あまりショックは起きませんし、聞き流してしまう子どももいます。ところが、お母さんにおだてられてきた子どもは、挫折感を経験していないので、友だちに何か言われるとショックを受けることになります。世の中には、子どもに対してショックを与えるようないろいろな出来事がたくさんにありますから、それに耐え、それを乗り越える意欲を子どもに育てておくことが、人生を力強く生き抜くために必要です。
もし、お母さんが、先生が悪いから、友だちが悪いから、うちの子どもがこんなになってしまったと考えるようでしたら、子どもに他罰性(他人のせいにする心)を与え、人生の落伍者になるように育てていることになります。
何を基準にほめたり叱ったりするのか
確かに、お母さんの中には「理想郷、ユートピア」を夢見ている人が少なくないと思います。そうした夢を追うことは、私たちにとって必要なことと思います。しかし、夢を追いながらも、現状を一歩でもよくする努力は、お母さん・お父さんとしても絶対に必要です。その点で、今の先生方が何を基準にして子どもをほめたり叱ったりしているのかについて、抜本的に考え直す必要があります。さもないと、わが国の教育の「荒廃」はさらに深刻になるばかりでしょう。
字や絵の問題から、いろいろな面へ話が進んだわけですが、現在の日本の教育を「荒廃」から救うためにどうしたらよいかを考えてみなければなりません。中央では、臨時教育審議会がいろいろの討論を行なっていますが、私としてはここで、お母さん・お父さんの教育に対する考え方をはっきりと打ち立ててみてほしいのです。その際に、心の「自由」とは何か、子どもに「自由」を与えての本当の意味での「自由あそび」はどのように実現したらよいかを考えてほしいのです。「自由」とは、子どもを野放しにすることではなく、自発性の発達をうながしながら、「責任感」を育てるための大切な考え方です。
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